2010年5月25日火曜日

私の俳句論① 感じる、切り取る、練る

 俳句は花鳥諷詠詩である、と定義した高浜虚子は、このように述べています。
〈俳句も詩でありますから吾々の感情をうたうものでなければなりません。が、俳句には季題というものが必要でありますから、その季題を透して感情を詠わねばなりません。俳句は季題を透して感情を詠い、又季題の刺戟を受けて感情が躍動する、つまり季題と感情とが互いに相援け合って生まれるのであります〉(『虚子俳句問答』より)
 文芸評論家で俳句の研究者だった山本健吉は『挨拶と滑稽』のなかで、
〈俳句は滑稽なり。俳句は挨拶なり。俳句は即興なり〉
 と、書いています。
 私は、会則のところでも書いたように、「季題無用」でいこうと思っているので、虚子の言う「季題を透して」にはこだわりませんが、「感情をうたう」には与しようと思います。虚子は季題の対象になる自然を「花鳥風月」と言いました。われわれは現代文明に暮らす者ですから、花鳥風月に人事や風俗までを含めて吟詠の対象にしたいと思います。恋情や動物への愛着、失意や劣情、思い出やひらめき、不遇への怒りや諦め、悲しみや哀切などなども句に込めて詠おうというわけです。
 何を詠うにせよ、最初に必要なのは「感じる」ことです。感じることは受け身です。意識の外から何かがやってきて初めて人は感じることができるのです。出会いは受け身。となると、われわれにできるのは待つことだけでしょうか? 極端は話をすればそうなのかもしれません。しかし、ただ呆として待つのではなく、心を開いて待ち受けることはできるのではないでしょうか。つねに感受性のスイッチをオンにしておくこと。そうすれば、他の人が通りすぎてしまうような路傍の草花にも美のかけらを見つけることができるでしょう。高杉晋作の辞世の句は、
〈おもしろき こともなきよを おもしろく〉
 でした。「感じる」ことができる人は幸いであると思います。
 何かに感じたら、つぎは「切り取る」ことです。山本健吉の言う「即興」は切り取る感覚に近いことを言っているのかもしれません。「切り取る」については後の項で、写生の重要性を語るときに、また詳しく説明することになると思います。虚飾や邪念を排し、ためらうことなくスパッと切り取る。その潔さが句に力とみずみずしさを与えるのだと思います。感じたその場で上手に切り取ることができた言葉はそのままで上等な句になることでしょう。もし、そうなら、句作はそこで終わり。切り立ての新鮮な句をそのまま投句すればいいのです。が、それはたいてい奇跡か天才の産物というものでしょう。句は言葉を連ねてつくるものであり、出来上がった句は他人様にも理解してもらって、つくった本人と同じような感動を得てもらうべきものですから、より確実に伝わるようにしなければなりません。そこで出てくるのが「練る」という作業です。
 繰り返すようですが、練ることなく切り取ったまんまで句が完成しているならそれに越したことはないのです。キレや余韻を句に付与するために、余分なレトリックを使って、句の鮮度が落ちてしまっては元も子もありません。このへんの塩梅は、天ぷらとうどんの違いに喩えられるかもしれません。天ぷらとうどんには両方とも小麦粉を使います。天ぷらの衣の場合は「練り」が強すぎるとグルテンが勝って衣がベタッとしてしまいます。一方、うどんの場合は練りに練って、足で踏んだりもして、うんとグルテンを出してやったほうがコシの強いうまい麺になります。その粉(句)は「てんぷら」にするのがふさわしいのか、「うどん」にするのがふさわしいのか、見極めることが大事なのです。
 

2010年5月24日月曜日

「私の俳句論」、の前の、長い前ふり

 最初にお断りしておきますが、私は俳句の専門家でも先生でもありません。すでに私の句を見ておわかりでしょうが、上手でもありません。ですから、飛行船派の主宰をやらせてもらっていることもおこがましいし、ましてや、会員のみなさんの句に寸評を付けることなど、神をも畏れぬわざだと重々承知しています。主宰のことは、便宜上、誰かがとりまとめをやったほうがよかろうということで、言い出しっぺとしてやらせてもらっています。批評のほうは、会員のかたへの挨拶のつもりです。ただ「句が届きましたよ」では愛想がないので、生意気不遜は承知のうえで、批評風を気取らせていただいているのです。
 とはいえ、縁あって一派を立ち上げ、「会則」までつくってしまったのですから、もう後には退けません。もともと俳句や川柳には強い興味がありました。いつかよい機会があれば、本を読んだり、句会に参加したりして、腕を上げてみたいものだと、ぼんやり考えていたのです。そこへツイッターというものが開発され、世に広まったことで、チャンスが天啓のごとく訪れたのです。これを機に、一度ちゃんと俳句について勉強してみようと思います。句作にも励み、ちっとはましな句が詠めるようになりたいと思います。ここで、私の俳句論を展開していきますが、それは私が自分自身の俳句スタイルを創り上げる過程の「学習ノート」だと思って読んでください(学んでいく過程で、内容が変化することもあると思います。変わったら、変わったで、ためらうことなく上書きしていくつもりです)。これが飛行船派の方向性だなどとは申しません。会則でも述べているように、飛行船派は自由もモットーにしていくべきです。ただ、口はばったいことを言わせていただければ、私も真剣に学び、考えて書きますから、その考えの一部でも会員のかたの句作の参考になればと思います。そして、みなさんと競って句をつくっていくなかで、「現代的」で「ツイッター的」な、新しい俳句のスタイル(新潮流)を創ることを目標にしたいと思います。
 なにやら言い訳がましい前書きが長くなりました。これからが本編です。私の俳句づくりについて、いくつかのポイントを述べます。

2010年5月14日金曜日

会の方針について

 今日の正式発足に先立つ1週間ばかりの「オープン戦」期間のあいだに、すでに10人ほどの会員が飛行船派に参加・投句しています。それぞれの在所は、東京、埼玉、名古屋、大阪、バリ島、ボルドー、シアトル(アメリカ人)と世界に点在。また、投句はしないけれど、覗かせてもらうという「傍観派」も何人かいます。
 せっかく会派をブチ上げたんだから会則くらいはなくっちゃね、そのくらいの気持ちで以下の会則をつくりました。主宰がいい加減な人間ですから、作風と同様に、会の方向性もふわふわといまだ流動的ですが、「ブログはいつでも直せるのがいいところ」を心の支えに、まずは当面の会則をつくってみようと思います。(ご意見、ご指導、異論反論、どんどんお願いします)

会則、その1
来る者は拒まず、去る者は追わず

 世のなかは不愉快な縛りに満ちています。飛行船派は「ゆるいつながり」というツイッター精神(?)にのっとり、人品骨柄の出来不出来にかかわらず、自由に参加でき、また自由に退会できるものとします。
 入会希望者は、自作の句にハッシュタグ(#airships)を付けて投稿してもらいます。投句すなわち入会とみなします。
 日々の作品発表はツイッター上で行います。このブログは、会の方向付けやニュースを発表したり、定期的に秀句を再録して味わったりする場にできればと考えています。また、主宰の句作についての考えも随時発表させていただくつもりです。ブログは更新のたびにツイッター上で#airshipをつけてご報告します。

会則、その2
題詠なし、句会なし、吟行あるのみ

 俳句の世界では、題詠(季題を選んで詠うこと)や句会(集まって題詠をおこなうこと)が重んじられてきました。しかし、飛行船派ではツイッターのもつ「自由さ」「速報性」「その場かぎり」「ゆるいつながり」といった特性を尊重し、題詠や句会よりも吟行(実際の景色に出会って詠むこと)に重きを置こうと思います。デッサンよりもスケッチというわけです。
 吟行という言葉には「創作のために旅に出る」というイメージがありますが、詠むべき題材は日常の暮らしのなかに無数にあるはずで、なにもわざわざ旅に出ることはありません。自然のなかに、人間のなかに、自分の心のなかに題材はあるのです。つねに「旅人の目」で暮らすこと。それは人生を豊かにすることではないでしょうか?
 日々吟行——これにてお願いします。

会則、その3
季題無用、形式自由、自ら縛るはそれもけっこう

 守旧派の人びとは「俳句=季題を17文字で詠じるもの」という定義にこだわります。ともに正岡子規の門下で最初は親友だった高浜虚子と河東碧梧桐が決裂したのも、伝統か革新かという問題が原因でした。
 飛行船派は「自由」を求めて空を航こうと思います。歳時記を傍らに置いて季題・季語を確かめる必要はありません。形式も五七五が七五三でもかまわないのです。また、逆に「私はあくまでも季題にこだわり、形式にこだわる」という人も等しく歓迎しようと思います。伝統のルールとスタイルには、淘汰を経た真理が凝縮されているのですから、それを軽んじよとは言いません。自らを縛るにせよ、解き放つにせよ、「自由」にいこうというわけです。

会則、その4
評は褒めるを宗とすべし、愚の句は自ずと廃れ往く也

 これはTLに一度書いたので、読んだことのある会員の方もいらっしゃることと思います。じつはこの項目をつくるにあたってはずいぶん悩みました。批評に関してどうするかは会の方向性に大いに関わるからです。
 伝統的に俳句や短歌は他人の目にさらされることで詠み手の腕を上げさせてきたようです。しかしながら、今日、日々の快楽的手慰みとして、当会の門を叩いた人が、自分の句に対してケチョンパーな評価を下されることを望むでしょうか? 良い句ができたら他人様にも読んでもらいたい。感動を共有したい。そこまで高尚でなくとも、良い句は「いいね!」と褒めてもらいたい、それが人情というものでしょう。ここ1週間、他人様の句を素人なりに評してわかりました。TLに流している以上、それぞれの句には作者の尋常ならざる想いと自負が込められているのだと。正直言って、中には想いが余って出来が良いとは言いにくい句もあります。しかし、そんな凡百の句にも、よく読めば詠み手から発せられた強烈なメッセージが込められているものです。評するならそこを評したい。下手を無理に褒めろというのではありません。その人の想いを汲もうと、そう私は言いたいのです。
 不出来な句はわざわざけなさずとも、自ずと消えていくでしょう。わざわざ詠み手の心を傷つけてまで手を下すこともないというのが現時点での私の考えです(ある日、いきなり人が変わって、激辛口の評者に豹変するかもしれませんがね、ヘッヘッヘ)。

※次回からは、主宰の句作論について少しずつ触れていこうと思います。

飛行船派宣言

 みなさん、私はいま胸が高鳴っております。新月の今日、ついにその日が来たのです。
 いまを遡ること1週間ほど前のことでした。私のツイッターのTLにひとつの句がテロテロと流れ出ました。

 飛行船 電話してたら 行っちゃった (歌舞伎町・鑑魚婦)

 じつはその前から胎動のようなものはあったのです。私のTLに登場する人の何人かがおりにふれ、俳句・川柳・短歌・のようなもの・等々をぽつぽつとつぶやいていたのです。幾度かはRTして、寸評(のようなもの)を流したりしました。土壌はじゅうぶんに整っていたのです。そもそもツイッターが日本人にウケたのは、われわれの文化的素養、言語的DNAのなかに「簡潔な詩文のなかで精妙にして広大、高邁な世界を表す適性」があったからではないでしょうか。かといって、現代の俳壇、歌壇が盛り上がっているかといえば、そんな噂はとんと耳にしたことがありません。われわれは「適性」と「表現の場(ツイッター)」を天与されていながら、その力を発揮せずにいたのです。なぁんてことをつらつらと考えていたある日の午後、新宿の空にぽっかりと飛行船が浮かんだのです。時は満ちたり。
 いまここに、ツイッター俳句、飛行船派の立ち上げを宣言いたします!
 便宜上、言い出しっぺの私がまことに僭越ながら当会の主宰を務めさせていただきます。私は長年、言葉を使う仕事に従事してきましたが、詩句については本格的に勉強したこともありません。すでに人生の先輩と呼べる方々の入会も決まっていて、はなはだ恐縮しています。が、これも何かの定めと腹を決め、精進するつもりですので、どうかよろしくお願いします。きょうの佳き日を言祝ぎ、主宰の拙句をひとひねり、ご披露させていただきます。

 新月の虚空にとびらを開け放つ (by にゃん頭火)

 次回は、飛行船派の方針について述べます。Less Talk, More 投句!!