俳句は花鳥諷詠詩である、と定義した高浜虚子は、このように述べています。
〈俳句も詩でありますから吾々の感情をうたうものでなければなりません。が、俳句には季題というものが必要でありますから、その季題を透して感情を詠わねばなりません。俳句は季題を透して感情を詠い、又季題の刺戟を受けて感情が躍動する、つまり季題と感情とが互いに相援け合って生まれるのであります〉(『虚子俳句問答』より)
文芸評論家で俳句の研究者だった山本健吉は『挨拶と滑稽』のなかで、
〈俳句は滑稽なり。俳句は挨拶なり。俳句は即興なり〉
と、書いています。
私は、会則のところでも書いたように、「季題無用」でいこうと思っているので、虚子の言う「季題を透して」にはこだわりませんが、「感情をうたう」には与しようと思います。虚子は季題の対象になる自然を「花鳥風月」と言いました。われわれは現代文明に暮らす者ですから、花鳥風月に人事や風俗までを含めて吟詠の対象にしたいと思います。恋情や動物への愛着、失意や劣情、思い出やひらめき、不遇への怒りや諦め、悲しみや哀切などなども句に込めて詠おうというわけです。
何を詠うにせよ、最初に必要なのは「感じる」ことです。感じることは受け身です。意識の外から何かがやってきて初めて人は感じることができるのです。出会いは受け身。となると、われわれにできるのは待つことだけでしょうか? 極端は話をすればそうなのかもしれません。しかし、ただ呆として待つのではなく、心を開いて待ち受けることはできるのではないでしょうか。つねに感受性のスイッチをオンにしておくこと。そうすれば、他の人が通りすぎてしまうような路傍の草花にも美のかけらを見つけることができるでしょう。高杉晋作の辞世の句は、
〈おもしろき こともなきよを おもしろく〉
でした。「感じる」ことができる人は幸いであると思います。
何かに感じたら、つぎは「切り取る」ことです。山本健吉の言う「即興」は切り取る感覚に近いことを言っているのかもしれません。「切り取る」については後の項で、写生の重要性を語るときに、また詳しく説明することになると思います。虚飾や邪念を排し、ためらうことなくスパッと切り取る。その潔さが句に力とみずみずしさを与えるのだと思います。感じたその場で上手に切り取ることができた言葉はそのままで上等な句になることでしょう。もし、そうなら、句作はそこで終わり。切り立ての新鮮な句をそのまま投句すればいいのです。が、それはたいてい奇跡か天才の産物というものでしょう。句は言葉を連ねてつくるものであり、出来上がった句は他人様にも理解してもらって、つくった本人と同じような感動を得てもらうべきものですから、より確実に伝わるようにしなければなりません。そこで出てくるのが「練る」という作業です。
繰り返すようですが、練ることなく切り取ったまんまで句が完成しているならそれに越したことはないのです。キレや余韻を句に付与するために、余分なレトリックを使って、句の鮮度が落ちてしまっては元も子もありません。このへんの塩梅は、天ぷらとうどんの違いに喩えられるかもしれません。天ぷらとうどんには両方とも小麦粉を使います。天ぷらの衣の場合は「練り」が強すぎるとグルテンが勝って衣がベタッとしてしまいます。一方、うどんの場合は練りに練って、足で踏んだりもして、うんとグルテンを出してやったほうがコシの強いうまい麺になります。その粉(句)は「てんぷら」にするのがふさわしいのか、「うどん」にするのがふさわしいのか、見極めることが大事なのです。

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